◎四国遍路 2019年 2〜3月
南国土佐はもう春だった。 花は咲き、小鳥は囀り、花粉は舞い飛び、土佐の遍路はまさに“修行の道場”だった。 阿波22番札所平等寺から土佐33番札所雪蹊寺までを順打ちで、歩き遍路した。もちろん室戸岬も。 総歩行距離、約214km。宿は事前予約せず、夜行高速バス(4列シート)の片道切符で出掛けた。 何日でも、行けるところまで行ってみようと思った。でも、そんな楽な甘い遍路は許されなかった。帰りも結局は高知から夜行バス。12泊14日。キツかったー。 |
初日から、夕暮れが刻々と迫っていた。これからまだ、日和佐の町の中まで歩かねばならない。日和佐の町は、写真右上の大浜海岸の奥である。 ついさっき、携帯電話で宿を素泊まりで取った。町は大きい、スーパーもある。まずは安心だ。 だが、なんせ夜行バスで来て、約20kmは歩いたのだから、頭が朦朧としていて、体もふらふらしている。 宿に着くと、親父さんが自転車を貸してくれた。自転車がこんなに楽チンな乗り物だとはじめて知った。 |
金剛頂寺の宿坊の奥さんの勧め、というよりはキツイお達し、いや命令で、不動岩への遍路道を下った。 なぜなら、不動岩のある行道不動は金剛頂寺の奥の院で、こここそ空海が虚空蔵求聞持法を行い、悟りを開いた修行の地だというからである。 静かで、趣があり、空海が不動岩での修行にこの道を何度となく通っただろうことが感じられた。 |
前夜泊まった田野町の古い旅館から27番神峯寺(標高430m)までは約18km、その27番神峯寺から28番大日寺は唐浜まで打戻りで約38km、合計すると約56kmはある。1日では無理である。 だが、1日で来たのである。聡明なる読者諸兄妹はもうおわかりだろうが、歩き遍路は見事にというか、いともあっさりと、8日目にして挫折したのである。 (言い訳だが、弁明をひとこと言わせてもらおう。) この日、予定していた安芸(あき)市内の宿は、すべて満室だったのだ。本当にホントなのである。安芸市にはけっこう大きな市営野球場があり、球場前という駅もある。そこにキャンプだか、大会だかがあり、おっかけだかが大挙して集まったらしい。 おまけに、なんと、前日に、携帯電話が突然ご臨終遊ばされたのだ。万事休すである。液晶が真っ黒になったまま、ウンともスンともいわないのである。もう12年ほど使っているガラ携のらくらくホンなのだから、無理もない。 神峯寺へ登るには、麓にあるお土産店「神峯」でコーヒーを飲み、荷物を預かってもらった。下りてきてからおかみさんに、携帯電話が壊れていて宿も取れないのだとぼやいていたら、おかみさん、自分の携帯で、次から次に安芸市内の旅館やホテルに電話してくれ、問い合わせてくれたのである。だが、数軒全部にかけてくれて空きはゼロだったのである。おかみさんは私の顔を見て、「…ということね。」と言った。 (おかみさん、本当にありがとうございました。) 私は、「はい、電話代」と百円玉を出したが、おかみさんは受け取らなかったので、おかみさんの前掛けのポケットにするっと落とした。 だから、どうしようもなかったのである。だから土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の唐浜駅から電車に乗って、次の大日寺のある野市駅まで行ったのである。 そして、駅の観光案内所に駆け込み、紹介された世界でいちばん快適だと思われるゲストハウスに、幸運にも泊まることができたのである。 このゲストハウスは、遍路道からわずかに離れてはいるが、自分たちが住んでいる普通の住宅を活用した小ぢんまりとしたきれいな宿で、ヘルシーな家庭料理がふんだんに出てきて、お風呂が沸きましたよと案内はしてくれるし、洗濯はしてくれるは、話し相手になってくれるは、送迎はしてくれるは、至れり尽くせりの大サービスなのである。 若くてきれいなフランス人の女のお遍路さんが一人泊まっていたが、あまりに居心地がよいせいか、すでに3連泊しているそうだ。 私はまれにみる幸運に浮かれていた。ラッキー!と。ふんわり温かな羽毛布団にくるまって、快適な眠りに入ったのだった。 だが、夜中に、大変なことか起こったのである。 私は、恥ずかしながら、正直に告白すると、いつの頃からか年甲斐もなく夜中に怖い夢を見て、うなされたり、金縛りにあったりすることがあるようになった。最近は、等身大の黒いボーッとしたものが現れる。それが出たのである。 そして、それが「何やってんだ、抜かしたらダメだぞ!」と大声で怒鳴ったのである。 私は恐怖のあまり上半身をはっと起こし、そいつを追い払おうとした。黒いボーッとしたヤツは夢の中だけで見たのか、実際に私のベッドの傍らに立っていたのか、私には正直どちらとも言いがたい。ましてやそいつが何者なのかもわからない。だが、最近時々私のところにやってくる。 どこかで悪い霊でも拾ってきたのだろうか…。そうは思いたくないが、もしかしたらお大師様?…、いやそんなことはないだろう。 暗闇の奇妙な静寂の中で、私は深いため息をついた。そうか、昨日、歩き遍路をやめて電車に乗ってしまったことが、無意識の世界にまで悔いとなってしみこんでいたんだな。私は再び深いため息をついた。 そして、小さな声で「明日の朝、元の場所まで戻って、また歩き直しますから…」と、祈るように言った。 翌朝、さっそく方針変更を宿の人に告げ、もう1泊連泊をお願いした。幸い宿は空いていた。腹一杯になりサラダもデザートもたっぷりの朝食後、「車で送りますよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えて車に乗ると、最寄り駅までとばかり思っていたら、なんと、昨日電車に乗った唐浜駅まで送ってくれた。片道30kmは優にある。おにぎりの昼食も持たせてくれた。 空はどんより曇っていた。昨夜の悪い夢の余韻がまだ残っていた。 今日は、海岸線をごめん・なはり線と国道55号線に沿ってひたすら西へ歩くだけである。宿も決まっているから、精神的に楽である。荷も軽い。だが、地図を調べてみたら、34kmはある。ちょっとキツイかなー。とにかく途中を省略しないで、全部歩く。そう決めたのだ。それこそ“歩き遍路”なのだ。 唐浜駅からおよそ8km、2時間ほど歩き、安芸市内に入った。けっこう大きな街だ。もし昨日、電車に乗らずに歩き続けていたら、たぶんこの辺で、大騒ぎをしながらドコモショップを探していただろうな、その場で新しい携帯を買うくらいのつもりになっていたのだから、と可笑しくなった。 なにげなく見ていったが、遍路道ぞいにドコモショップは見当たらなかった。 電車に乗らず、大真面目に歩き遍路を続けたもう一人のオイラがいたとしたら、この辺で、さぞ大慌てで、困っていただろうな…。 遍路旅で、「もし」を考えても栓ないし、意味がないが、「もしあのときああしていなかったら…」や、「もしあのときああしていたら…」は、人生と同じで、後から悔やんでみてもどうしようもない。人はひとつの生き方しか選択できないし、ましてや時間を巻き戻して過去に戻り、選択しなかったほうの生き方を生き直すことは不可能だ。そのようにできている。おまけに現実は必ずしも単純な「二択」でもない。さらに、次々と新しい選択が迫り、無限ともいえる枝分かれの中の一つだけを生きる。 この頃時々考えるのだが、その選択しなかった方の生き方は、どこでどのようになっているのだろうと思うことがある。そのまま何事もなく消え去ってしまっているのだろうか。それとも、どこかにひっそりとたまっているのだろうか。 こうやって時々、くよくよ、ちくちく思い出したりするのだから、心の奥深い無意識の部分に少しは残っているとも考えられるような気がする。それが時々顔を出し、過去に戻ることはできなくても、これからの現実でやり直しを強いることだってある。 現に今回の遍路の歩き直しは、まさにそのよい例だ。黒いボーッとしたヤツは頼みもしないのにわざわざ出てきてそれを教えてくれた。そうか、そいつは、選択しなかった生き方と同じ、暗く深い無意識の世界に住む住人だったのだ。 New 「もし」ifの話はさて置き、「もしもし」のほうの携帯電話の話だ。実のところ、野市駅の観光案内所に飛び込んだとき、やはりなんとなくバツが悪かったのだろう、携帯電話が壊れていることを言い訳がましく話したのである。そしたら、若い女の子が、「それって、電源が切れていませんか?」と言った。えっ? そうか。そんなこと少しも疑ってみなかった。充電は何度もしてみたが、それよりも最も基本的なことに、まったく気が回らなかった。オイラはどうかしてる。 私は電源ボタンを長押しした。すると、ブルルとバイブレーションとともに液晶が明るくなって、いつもの見慣れた青い画面が出たのである。ハレ〜! ああ、恥ずかしい〜! オイラは女の子の顔をチラッと見た。オイラの顔はこの世で最も無様で情けないしわくしゃだらけだっただろう。穴があったら入りたい心境だった。 要するに、携帯電話のお陀仏様は何のことはない電源が切れていただけだったのだ。なんとも馬鹿バカしい私の思い違いというか思い込みの独り相撲だったのだ。だが、それに2日間も気がつかなかったというのは、かなりヤバイ。明らかに始まっている。認知症が…。 元の場所まで戻ってのやり直しの歩き遍路は、経験がなかったわけではないが、やはり気分的にどことなく盛り上がらない。いや、盛り下がる。 おまけに午後からは雨が降り出した。カッパの上下を着て、傘を差して歩いた。いつの間にやら本降りになり、靴の中までじわじわ濡れてきた。 安芸から、穴内、赤野、和喰、西分を過ぎ、国道55号線は手結山への緩い上りに入った。雨の中での長い上りが応えた。夜須に着いたときには、もう体力の限界だと感じた。夕闇が迫っていた。夜須駅の真ん前は道の駅だった。おもしろいなあーなんて思ったが、なんとなく上の空で、電車の時刻だけを確認して、そそくさとホームへ上った。 電車は間もなく来た。1日の歩き遍路は終わった。やはり歩き残してしまった。また明日の朝、ここまで来て歩くことにしよう。私は心の中でそう言った。 雨の野市駅で待つと、宿の車が迎えに来てくれた。車には若い美人のフランス人のお遍路さんが乗っていた。どこかの駅まで迎えに行ってやったようだった。 だが、時々話す言葉が明らかにフランス語ではない。単語もイントネーションも、全然何語かわからない。宿のおかみさんとはスマホの音声翻訳かなんかで会話している。おかみさんもいい度胸してる。 2日目の夜は、怖い夢も、黒いボーッとしたヤツも出なかった。 3日目は、また連泊をお願いし、昨日歩き終えた夜須駅まで電車で行き、そこから歩き出した。天気は昨日とは打って変わって快晴。一昨日お参りした28番大日寺は省略し、29番国分寺、30番善楽寺を打った。そしてJR土讃線の土佐一宮(いっく)駅まで歩き、そこから電車に乗って宿まで帰った。この日の歩行距離は約24km。私としてはまずまずである。 よい宿をベースにして、遍路道は少しも省略しないでちゃんと歩くが、帰りは電車やバスなどでまた同じ宿まで戻る。これを毎日繰り返していく。もちろん地理的にうまくいくようなところでなければできないが、気分も体力もずいぶん楽な歩き遍路になる。たまたまというか、自然淘汰的にそんな歩き方をすることになった。 「通し打ち」や「区切り打ち」に対して、なんというか、「毎日日帰り通い打ち」とでも名付けようか。だが、どことなく修行という感じはしなくなる。それでよいではないか、充分ではないか。 四国一周1200kmをお遍路したところで、それは所詮、楽しみであり、遊びであり、観光である。歩き遍路といえども、所詮は巡礼や修行の真似事であり、当たり前のことだが、本物の修行などではない。そう思ったら、急に気が楽になった。明日もまた連泊しようと決めて、眠りについた。 4日目の朝、また連泊を申し出ると、昨日の夜予約が入って、満室になってしまったそうだ。残念だったが私はあっさり諦めた。今日の行程は、牧野植物園に寄るので時間がチョット読みにくいし、戻るのと行くのではどちらも同じだと思った。 豪華な朝食で、弁当まで持たせてくれて、おまけに土佐一宮駅まで車で送ってくれた。私は駅前のコンビニの前で、おかみさんに何度も頭を下げてお礼を言った。なんだかこのまま別れるのが惜しいような、寂しいような変な気持になってしまった…。 遍路道は、ごめん・なはり線の文珠通駅を横切り、31番竹林寺へと向かう。五台山に登っていくと、いつの間にやら牧野植物園の中に入っている。アレレ? と、ちょっとびっくりする。だが、やはり先に竹林寺をお参りしたほうがいいだろう。いったんゲートから外に出て、竹林寺参拝のあと、入場券を買ってまた植物園内に入った。 牧野植物園に入るのははじめてである。以前一度目の前まで来たことはあるが、「ダメ! 時間がない!」の一言で通過。だから、長年の夢がやっとかなった。 3月はじめとはいえ、南国土佐には春の花が咲き始めていた。トサコバイモ、コブシ、アセビ、ユキワリイチゲ、オオミスミソウ、トサミズキ、そしてスエコザサ…。 (牧野植物園の花については、別ページに載せました。) この日は、MY遊(周遊観光)バスで高知市内へ行き、駅に近い新しくできたゲストハウスに泊。実質的に最後の夜になるので、帯屋町あたりに一人飲みに行った。 いよいよ最終日。今夜の夜行バスで東京に帰る。バスは昨日電話で予約した。まだ今日1日ある。MY遊バスで昨日の最終地点竹林寺まで行き、律儀にまた歩き出した。 32番禅師峰寺(ぜんじぶじ)を打ち、浦戸湾は種崎から長浜まで渡船(県営フェリー・無料)に乗って渡った。そして33番雪蹊寺に着いたのは5時近く、納経ぎりぎりだった。間に合った。 雪蹊寺からは市内バスで、長浜営業所から高知はりまや橋へ。 ここから19時40分発夜行バス(4列シート)で、翌朝6時50分新宿バスタ着。12泊14日の歩き遍路は無事終わった。 だが、新宿バスタに着いたとき、来るときに深夜のこのバス乗り場で、暗く思い詰めたように、私に「話してもいいですか?」と、あまりにも唐突に、低い声で話かけてきた青年のことを思い出した…。 |
(2019.3.12〜更新) 国立博物館に「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」の特別展を見に行かねば… |
(2019.03更新) |